『桃華月憚』を「忘れる」ということ


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桃華月憚』を新規に観始めた人からの苦言として、「どんどんストーリーを忘れる」が多いように思う。
アドバイスとしては「一気観したら」とか「メモを取ったら」としか言い様がないのだけど、
それじゃどうも根本的な解決法には成り得ない訳でもあるので、開き直った意見を書いていこう、と思った。
いささか暴論ではあるので、あまり視聴の参考にはならないことを、最初に明記しておく。

つまり、桃華月憚』における「忘れる」ということは、もう織り込み済みの、必然性のある事なのだ。
1話について、音楽担当の多田彰文氏は以下の様にコメントされている。

チェック用にHDDレコーダーに録り溜めてあった
桃華月憚」をDVDディスクにダビングしていました。
必然的に1話「桜」からのダビングです。
どうせならもう一度見てみようと思い、しばらく見ていたのですが
なんだか1話の途中で泣けてきてしまいました。
そういえばリアルタイムで見ていたときも1話のラストシーンで
ふと、うるうるしてしまった記憶があります。
理由はなんでかわかんないんだけど。
桃華月憚というアニメについて ― 作曲やってま〜す !! (2012年12月26日閲覧)

これを万人の感想とするのは無理だが、私も同じように1話の途中で目が潤んだ経験のある者として言うと、
その一瞬一瞬の、筋書きを逸脱した感動に、この逆再生の意図はあると思う。逆再生でなければ、こういう事件があって、こういう出会があって、と
理解した上での感動となるが、『桃華月憚』では完全に演出任せで感情を喚起させ、狐につままれたかのような感動を与えることになる。
これは相当リスクの高い挑戦であるし、現に「失敗した」との声も高い。

同じように、訳の分からないまま事件は起き、その度に不思議な感動が起こるのを繰り返して、
その末に、最終話を観た時、まず記憶を失った主人公とヒロインの姿が目に入る。そこで視聴者は、
「キャラクターたちはこれから何が起きるか知らないけれど、自分達はもう知ってる。だから最終話で感動できるように作られている」と解釈する。
しかし、正確にはそうではないと思う。訳の分からないまま事件を目撃したら、それは「あんなこともあった」と記号的に想起することはできるが、
そこでキャラクターが何を想ったか、細部でどういう動きがあったか、は忘れて当然である。メモを取っていてもそれは同じだろう。

それにツッコミを入れている(はず)のが、25話の「サブタイトル〆」だ。

この回では最終話を迎えるにあたり、今まで目撃してきたことを振り返る。しかし、そこに主観性は無く、ドキュメンタリーの体裁をとって
記号的に事件を紹介するだけである。現にこの回は、時系列的には1話よりも後、桃香も桃花も消え去った後である。

これによって視聴者は、ああこんなこともあった、とほのかに思い出す。ラストの邂逅を観て、ああこれからああいうことが起こって……とカタルシスを得る。
しかし、同時に視聴者は、事件を記号的にしか知らない、無知の存在であり、その点では桃香、桃花とは変わらない。
物語が進んでいくにあたって、逆に桃香も桃花も様々なことを経験して、思い出を作っていく。

桃華月憚』の視聴者は、同時に「サブタイトル〆」の視聴者であり、「彼(彼女)らを忘れていく存在」だ。主役と行動を共にして、
その時その時の感動を味わえど、最後にはこの2人のことなんて記憶の彼方に消えてしまうのだ。
だからこそ、この2人がいかに切り離された特別な存在であるかも分かる。

そういう意味では、視聴者は物語を追うことを断念するべきかもしれない。謎解きに挑戦し、すべての細々とした設定の把握に励むのは無茶だから、
感動と忘却をただ繰り返す、この時間の流れに浸ればよい。そして観終わったら、もう二度と物語を追うことはなく、すべて綺麗さっぱり忘れて、
まるで蜃気楼のような作品だった、と最後に思えればよい。なにしろこれは、「幻想奇譚 恋絵巻」なのだから。